ひとめを気にするのはやめた

在宅で会社員グラフィックデザイナーをしています。 私と、フリーダムな韓国人の夫、またしてもフリーダムで頑固者の息子(3歳)の3人+フリーダムすぎる猫1匹で暮らしております。 私もフリーダムになりたい。

アダルトチルドレンな私 〜高校から専門学校まで〜

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こんにちは。こけきです。

 前回は幼少期から中学校までを書いたので、今回は高校からの事を書こうと思います。

 

 

 初めて本当の友達ができた高校時代

 

高校に入っても、私は相変わらず自分に自信がなく、周りに流される主体性の無いやつでした。

でも、そんな私にも、やっと心から友達だと呼べる人ができました。

その友達もちょっと変わった人で、人の心を読む事に長けていて、なおかつなんだか求心力のある人で、一緒にいると明るくなれました。

その時、3人とすごく仲良くなったのですが、そのメンバーでいると、なんだか少しずつ、自分の良い所が見れるようになってきたんです。

その友達たちといると、相手の良いところ、自分の良いところを自然と見つける事ができて、その友達たちの事が本当に大好きになりました。

思えば、今までの友達の事を好きだと思った事は無かったです(もうこの時点でほんとに最低な奴ですね)

心から一緒にいて楽しいと思える友達との出会いは、私にとってすごく大きなものでした。

クラス内での人間関係は、相変わらず表面的にしかできなくて、クラスの友達もいましたがやっぱりその場限りで、クラスが離れるとほとんど話さなくなってしまう感じでした。

でも仲の良い友達と一緒に放課後に買い食いしたり、休日に遊びに行ったりするのはすごく楽しくて、高校生活、辛い事もありましたが、全体的には楽しい思い出が残っています。

 

そしてついに私も、進路の壁にぶち当たりました。

今までカラッポだった私です。自分の事なんかちっとも分かっていない私です。

何をすれば良いか分かりませんでした。

そしてその時、母がいつも言っていた事を思い出していました。

「手に職をつけなさい」

そう何度も私に言い聞かせていました。

母は結婚する前は銀行員で、寿退社して子供を産みました。

しかし子供を産んだ後も色々仕事はやっていました。

引っ越しをしたりしたので、ずっと同じ所では無かったのですが、その都度勉強して正社員になったり、時にはパートだったり、職業は転々としていたのですが、ずっと働いていましたね。

そしてよく言っていたのが「あのまま銀行を続けていればよかった」です。

寿退社は父が望んだようで、時代もあってそれが当たり前の感じだったようですが、なんだかんだずっと働いていたので確かにずっと銀行員でいたほうが良かったのかもしれません。

父はちゃんと働いていたので、お金がそんなに無かった訳では無いと思うのですが、やっぱり働きたい人だったのだろうなと思います。

そんな母を見てきたので、もしこの先結婚して子供ができて仕事ができなくなっても、ちゃんと戻れるような職業がいいなと思っていました。

それにはちゃんと国家資格がある資格を取って、安定した職業がいいと思いました。

そこで選んだ職業が臨床検査技師です。

臨床検査技師とは、病院や検査センター等で血液検査や尿検査など、さまざまな検査を行う職業です。

別に医療の現場で働きたいだとか、人の役に立ちたいだとか、そういう志があった訳ではありません。

ただ、文系か理系かだったら理系科目のほうが得意だったし、理系だと医療系かな、看護士だと人が苦手だから無理だろう、じゃあ検査する人はどうだろうか?という思考です。

将来安定してきちんとした職業だったらなんでも良かったのだと思います。

しかも大学受験が大変そうで、臨床検査技師なら3年制の専門学校に行けばなれるので、大学受験をしなくて済むし良いんじゃね?みたいな甘すぎる浅い考えで、臨床検査技師の専門学校を受験する事にしました。

 

大学受験をしなくて良いとしても、医療系の専門学校なので、それなりにきちんと勉強しないと入れません。

私は勉強が嫌いでした。小学校の頃こそ優等生でクラスで一番とかでしたが、小学生の頃は授業をちゃんと聞いていれば良い点数はとれましたし、個人的な努力とかはそんなにしなくても優秀でした(嫌な奴ですねほんと)

でも中学に上がるとそうはいきませんよね。テスト前にちゃんと勉強しないと良い点数なんてとれません。

私は勉強をしなかったので、学力はだんだん落ちていきました。

むしろ勉強をちゃんとして優秀な人よりも、やべー今回20点だったアハハ!みたいな人のほうが魅力的に見えたのです。

私の中では20点とかありえなかったのですが、それでも良いんだ、それでも許されるものなんだ、って思いましたね。

母も父も、勉強しろとか、良い点数とれとか、そういう事は一切言いませんでした。

子供の頃は、母の心の声に従って、母が望むような人になろうと思っていましたが、実際に何か言われる事はほとんど無かったと思います。

言われなくても優秀で、ちゃんとしていました。

でも小学校高学年くらいから、だんだんと母や父を客観的に見られるようになってきて、母の望むような子供である事から自然に遠ざかるようになってきました。

なので、中学でちゃんと勉強しようとかあまり思わなかったですね。

むしろその20点の人に憧れすら抱いていたのですが、そこまで本当に全く勉強しないのもなんとなく不安で、テスト前だけ勉強したりして、成績は普通くらいでした。

もうそこらへんが私の中途半端さを象徴してますね…。

高校は県内では真ん中くらいの偏差値の高校でした。ほんと普通。

でも医療系の専門学校を受験するとなると結構頑張らないといけないので、この時だけは結構頑張って勉強しました。

 

そして無事に臨床検査技師の専門学校に合格し、入学する事になりました。

 

暗黒の専門学校時代

 

臨床検査技師の専門学校に入学した私は、毎日勉強と実習に明け暮れていました。

医療系の専門学校なんだから、当たり前ですよね。

医療の専門的な知識を学ぶのです。勉強する事は山のようにあります。

分厚い専門書を毎日見ながら授業を受けても、ちゃんと復習しないとついていけません。

実習も授業の内容がちゃんと分かっていないとできません。

私は勉強が嫌いです。苦痛でしかありませんでした。

ある先生が「医療の道に進む者は、一生勉強だ」と言っていました。

確かに医療技術は日々進化するもの。その仕事をするからには最新のものについていかないといけません。

それを聞いて私は絶望しましたね…。

そして、その他にも今までと決定的に違う事がありました。

それは、いる人種です。

みんながみんな、臨床検査技師を目指している学校。

今までの小、中、高校もそこまで多種多様な人がいた訳ではありませんが、更に狭まった感じです。

気が強くてプライドが高そうな人が多かったです。

そう、私が結構苦手な人たちでした…。

でもみんな努力家で、本当すごいなと思うのですが、やっぱり苦手意識はありました。

そして授業をしてくれる先生は、実際に臨床検査技師として活躍されている方や、大学の教授が来てくれるのですが、その中の誰一人として好きになれませんでした。

先生方の頭の中は知識でいっぱいで、今までの努力、今現在の努力の積み重ねの量が半端無くて、本当に尊敬するのですが、なんだか人を見下した感じの人が多い気がして、人としてあまり好きにはなれませんでした。

そして私はこれからこういう人たちの中で働くんだ、私はこういう人になれるのだろうか?いやなれない、むしろなりなくない。と思いました…。

 

毎日の勉強も、ちゃんと志があれば頑張れたのかもしれません。

でも私がこの学校に入った理由は、安定した職業に就くため。

医療の仕事がしたいとも思っていないし、病気の人を救う手助けをしたいとも思っていない。

完全に間違えたと思いました。

そんな理由でなれる程甘くはなかったのです。

毎日興味もなければやりたくもない勉強を強いられ、苦手な人の中でコミュニケーションをとらなければならず、将来像は先生方のような、なりたくもない大人。

ほんとお先真っ暗でした。

狭くて長くて終わりの無いトンネルの中みたいでした。

毎日毎日辛くて、だんだん病んでいきました。

前の記事で書きましたが、私はアトピー体質なのですが、この頃のアトピーが一番酷かったです。

 

もう辞めたい…。と毎日思っていました。

そして、その思いがだんだんと大きくなり、もう辞めなければ私は終わりだ、くらいに思うようになりました。

もう本当に辞めよう、母に言おうと決めましたが、なかなか言い出せずにいました。

そもそもうちの家庭は本心を言わない家庭でした。

両親の仲は良くなく、母は父に文句ばかり言っていましたが、本音で話し合う事を全くしていませんでした。

なので喧嘩すらしているのを見た事がありません。

だからか、本音をぶつけ合うという事が、私にとってすごく恐怖で、辛くてもいつも平気なフリをしていました。

でも今回ばかりはちゃんと言わないと私の人生お先真っ暗です。

結局直接は言えず、手紙に書いて、朝、家を出る前に母が見つけやすいキッチンテーブルの上に置いておきました。どこまでもチキンですね。情けない…。でもこれが精一杯でした。

 

学校から帰ると、母が待っていました。

ちゃんと話をしようと言ってくれ、私は辛いと話しました。

自分の気持ちを話すのが本当に苦手なので、ほとんど話せませんでしたが、手紙に細かく書いておいたので、それでもなんとなく分かってくれていたと思います。

そんなに辛いならと、辞める事はすぐに承諾してくれました。

私は、母が承諾してくれる事は分かっていました。

今まで、色々母のせいで苦しい思いをしてきましたが、愛情は感じていました。

ああしろ、こうしろと言うのも愛情から、過保護、過干渉も愛情からだという事は分かっていましたし、いつも家族の事を一生懸命やってくれていました。

だから辛いのに続けろとは絶対に言わないだろうと思っていました。

 

この時、私は辞める事しか考えていなかったので、辞めてからどうするかは全くの未定でした。

でも専門学校に行くのにどのくらいお金がかかったのかも分かっています。

とりあえず働くしか無いと思っていたので、「とりあえずバイトしてフリーターになる」と言いました。

でもそれは却下されました。

「お金の事はいいから、やりたい事をやりなさい」

と言ってくれました。

この時の母には、本当に感謝しています。

 

とりあえず、入学して1年で専門学校は辞める事になりました。

でもそれから何をするかは全く決まっていませんでした。

専門学校を辞めたら、開放的になれるかと思っていたのですが、仕事もしていない、学校にも行っていない状態が、社会から爪弾きにされたようで、それはそれで辛いものでした。

何か探さないと、と必死でしたが、今までカラッポだった私です。

自分の事なんて全く分かっていなかったので、自分が何をしたいのかなんて分かりません。

本当はこういう自分と向き合う事を、高校の時にしなければいけなかったんですよね。

そしてやっと私はひとつ思いつきました。

小さい頃から今でも好きだった事がひとつだけありました。

それは絵を描く事です。

誰にも言った事はありませんが、小さい頃はイラストレーターや画家を夢見ていた時期もありました。

でも子供のときから既にそれは無理だろうと思っていたのです。

べつにそこまで絵がうまい訳でもない。絵を職業にするほどの才能は多分ないと思っていました。

でも好きな事がそれしかなかった私は、絵に関する仕事で私にもできそうなものは無いかと探しました。

そしてグラフィックデザイナーという職業を知りました。

グラフィックデザイナーは、雑誌や本の紙面レイアウトやポスターを作ったり、商品のパッケージやグッズのデザインをする仕事です。

雑誌はたくさんあるしポスターもたくさんある。

これなら私にできる事があるかもしれない、と思いました。

 

グラフィックデザイナーになるには、専門のパソコンソフトなどの勉強をしなければならないので、デザインの専門学校に入ろう、と思いました。

学校に入るにはまたお金がかかります。それが本当に申し訳なくて、気がかりでした。

医療系の専門学校は普通の専門学校よりも高いので、それよりは安くて済みますが、それでも2年間の学費がかかります。臨床検査技師の専門学校の1年間(入学金やら教科書代やら初期はもろもろかかる)デザインの専門学校の2年間もの学費を親に払わせるなんて、私はなんて金のかかる上に駄目なやつなんだろうと思いました。

でもその時は親に甘えるしかありませんでした。

母は、お金の事は気にしなくて良いと言って承諾してくれました。

父は、母から話していたようですが、学校を辞める時も、デザイン学校に行くと決めた時も、父と直接話をする事はありませんでした。

ほんと全て母任せ。

でもお金がかかるのに文句のひとつも言わずにいてくれて、感謝しています。

 

デザインの専門学校は入学試験などは無く、願書を出せば誰でも入れる感じだったので、すぐに入る事ができました。

前の学校を1年で辞めて、次の4月からデザインの専門学校に行く事になったので、幸い、ブランクは1年で済みました。

 

世界が変わったデザイン専門学校時代

 

無事にデザインの専門学校に入学した私ですが、不安はありました。

1年ブランクがあるので、ほかのみんなよりは一つ年上になります。

ちゃんとうまくやれるだろうかとドキドキでした。

でもそんな不安は全く必要ないものでした。

デザイン学校には、大学を卒業してから来た人、働いていたけど辞めて来た人、中国人、韓国人の留学生もいて、年齢はほんとに様々でした。

社会人コースというのもあったので、授業によっては仕事をしながら学校に来ている人もいました。

なんか…、自由だ…!!と思いましたね。

ちょっと感動しました。

今までの学校生活では、ちょっと変わった人は攻撃されやすかったし、うまく馴染めないとひとりぼっちになってしまったり、故意にハブられたりする感じでした。

とにかく空気を読んでうまく馴染むことが重要だったのです。

でもこの学校はそんな空気が全くなく、個性的は人も多かったし、ただただ自由でした。

空気を読みすぎて疲れてしまう私にとって、ものすごく居心地の良い空間でした。

授業も私が興味があるものが多く、とても楽しかったし、課題作りも楽しかったです。

とにかくデザイン学校時代は、ただただ楽しかったですね。

目の前の暗黒の雲から光が射したような感じでした。

私の進むべき道はこっちだったんだ!と思いましたね。

 

それから私は無事にデザイン学校を卒業し、グラフィックデザイナーとして働き始めました。

今でもグラフィックデザイナーとして働いています。

転職したり、子供が産まれたりしたので今は在宅でやっていますが、なんだかんだずっと続けています。

今思うとあの時、学校を辞めた事が人生の転機になったと思っています。

あの時辞めていなかったら、今私はどうなっていたのだろうと思うとゾッとします。

なので両親には本当に感謝しています。

まあ親子の確執みたいなのはあるし、うまくやれない感じもあるのですが…。

 

次回はそんな実家から出て一人暮らしをし始めた頃の話を書こうと思います。